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父が亡くなって1年が過ぎた。今ここに父を偲び、その思い出を文章にしてみたい。


by kusanohana2

父が亡くなったその日

~2007年3月10日



その朝、私は九州柳川で雛人形をめぐる旅をしていた。おもてなしの旅館に泊り、その朝、清算をしている最中に私の携帯電話がなった。父の入院先の病院からの電話だった。
「おとうさんの容態が急変しているのですが病院にいらっしゃれるでしょうか?」
「あの~~私今九州にいるので、ちょっと無理なんですが。」
「あの、そういう状況ではないのです。もしかしたら呼吸していないかもしれないのです。」

この1年、父は危篤状態を何度もくぐりぬけていた。胃に穴をあけ(胃ろうの手術)、寝たきりで意識がはっきりしないままに底値安定状態にあった父だったので、この電話もその程度のものだと思っていた。

旅館の入り口で大慌てが始まった。とにかく誰かが病院に行かなくてはならない。妹は仕事中で連絡がとれない。娘は、自分の子どもの世話でたぶん病院には行けないそうだ、息子だ!と思い出し、千葉市の予備校で勉強中だった息子に茨城県取手市の協同病院まで向かってもらった。

結局、父は電話の段階でもう事切れていたわけである。仕事先に連絡がついた妹が駆けつけて、死亡の確認をとったのが午前11時25分。静かに、1人で父は天へと召されていったのである。

その死から1年が経とうとしている。人の死に伴う、煩雑なすべての事務手続きを終了し、父の部屋も整理し、何かが終わろうとしているこの時になった。このままでいいのか・・・という思いに襲われた私である。10年前に母を肺がんで失った時、父への恨みを感じた私。妻を亡くして寂しい父に対しても、何の優しさも示さずにいた私。病に伴う認知症で、少しずつ壊れていった父へ、優しさのかけらもなかった私。亡くなる3ヶ月前、脳挫傷により、意識混濁が続いていた父を冷静に眺めていた私。

私は何をすればいいのか。お墓の前で懺悔すればいいのか?写真に向かって手を合わせればいいのか。私が結論したことは、自分にできること、文章で思いを残すことであった。晩年は病により壊れていってしまい、つらいことが多かった。しかし、77年の人生の最後のつらい数年だけを記憶しておくのも、罪なこと。父は楽しい人だったし、傍若無人だったし、破天荒だった。一言では言い表わせないヘンな人だった。。父がこれを読んだら怒るかもしれない・・・でもこれが娘のフィルターを通した父。一緒に笑っていただければ幸いです。


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私と妹と私の友人数名と劇団四季のミュージカルを見に行く
40代の女性数名に囲まれてごきげんの父(73才)
# by kusanohana2 | 2009-04-24 15:28 | ①父が亡くなったその日
~大きな力によって父の元に呼び寄せられた



製薬会社に勤める夫の仕事柄、結婚以来各地を転勤していた。子どもが小1から高3までを松山で過ごしていたが、息子は大きな運命の波に乗って、千葉大に進学。その8ヶ月後、またまた運命の波に乗って、転勤の辞令が千葉市に下りた。子どもたちの後を追うように、千葉に戻ってきた私たち夫婦である。2005年の新春だった。

千葉市の新居に落ち着いた2月、千葉県我孫子市に住む父のところへ挨拶に行く。築50年になる我孫子の実家に、いずれ戻ります・・という私たち夫婦の話し合いの結果を報告も兼ねて。

ここで野崎康宏の普通でない器(うつわ)を紹介しておこう。父は家を建てるのが趣味である。築50年のこの家も、最初から4回にわたって改築をしている。敷地内には妹の家が建っているがその家は20年前に父との2世帯住宅として建てた。それ以外でも思いつくとすぐに業者を呼んで、いろいろな工事をしてもらう。その過去は枚挙にいとまがない。
そういうわけで、父のこの性格がここで首をもたげたわけである。私たち夫婦は、夫の定年後を想定していずれと言った。しかし、その見極めは甘かった!!!
結局、父の頭は2世帯住宅を、俺が建てるという妄想で満たされとうとう実現されることになってしまった。俺が建てるという理由も、全く一方的な野崎康宏らしい見解だ。
「お前たちの建てる安っぽい家は嫌だ」と。夫も慣れているとはいえ、よく我慢してくれたものだ。
2005年5月のこと。

その頃には父の頭は壊れ始めていた。それでも、得意分野の力はまだあった。だが、馴染みの工務店に安易な仕事をすぐに頼んで私たちは唖然。慌てて、知り合いの設計士を紹介してもらい、充分な話し合いの上、新築ではなく、住友不動産のお勧めの新築そっくりさんという改築をすることに決定した。その打ち合わせの最中にも、昨日決めた事を忘れる程度の認知症が明らかにはなったが、それでも、まだ序章に過ぎなかった。

あっという間に、建築の話が進んでしまった。2005年6月に契約。9月から建築が始まった。12月に完成である。設計士は、父の状態を見て、早くしなくてはだめだと判断したらしい。

この改築ために、荷物はすべて引越した。50年のすべての荷物を動かしたわけである。物持ちがよく、整理していた母の荷物もほとんど残されたまま。1人になって、自由自在に家中を物置にして買った父の荷物。買った本人は、それが何の道具かも忘れていた。それらを、私たち夫婦と、妹の手助けで、すべて、どうにかした。忘れもしない、2005年8月24日、私の子どもの20才の誕生日がその引越しの日。その日を目指し、毎日ゴミとの格闘していた。父の認知症が、この引越しで一層進んでいることを気付かされた。大切な書類ですら整理が不可能だった。しばらく見つめているだけで、「全部とっておいてくれ」か「捨てちまってくれ」しかない。父にとっての大切な「薬」と「下着」は置き場所を変えたために何度説明してもわからず、何度も千葉まで電話がかかってきた。
「参ったよなぁ~~~ないんだよ。教えてくれよ~~、助けてくれよ。」と、いつも困り果てていた。

2005年8月。できっちゃた結婚をした娘が未熟児を出産。出産直後に娘と彼の間に不協和音が。我が家族の大きな壁にぶつかっていた時と重なり、苦しい思い出で一杯である。しかも、20歳の誕生日という晴れがましい日は涙で迎えていた。

2005年12月に新居は完成したものの、千葉市で普通に家族の生活を営んでいた我ら家族は、家族がバラバラになって住む決意がつかない。夫は千葉市から房総半島の方を仕事で担当しているため、我孫子からの通勤は遠いし、息子は千葉大に通っているため、千葉市に住むのは当然。しかも、マンションは社宅扱いである。父が2世帯住宅にしたからと言って、すぐ住むとは一度も言っていない・・・そんな葛藤と闘いつつ、しかし、その一方、父の体の状態はだんだん悪くなり、新築以前のように、1人暮らしできるような状態ではなくなってきていた。新築以前は、1人暮らしと言っても隣に住む妹の援助があった。それがまた、妹が外に仕事に行くようになったため、差し迫った援助がどうしても必要になった。

差し迫った状況に重い腰をあげて、2005年3月16日。私は犬だけを連れてまず、引越してきた。父は朝、妹の家から出発して透析病院に行き、帰宅は、新居である。
「お帰りなさい。今日からよろしく。」父とそんな会話をしたが、父はなんだか無反応だった。新居に入って、電気のスイッチがわからない。トイレの流し方がわからない。あれもわからない、これもわからない・・・でパニックになっていた父。建築中の妹の家で過ごしたのと、新居との2回の引越しで父の認知症が進んでしまったのは、確かだった。今となれば簡単に結論がだせるが、その時は、これから先が不安で一杯だった。

病院の方でも、父が娘と同居したというので安堵。父の病状は加速度的にひどくなっていった。インシュリンの打ち方、血糖値の測り方、透析の様子など私は駆け込みで看護師さんから学び、どうにか介護らしくなってきた。父は、血糖値を測ることも、インシュリンを打つことも、薬を飲むことも、全くできなくなっていた。半年前まで1人暮らししていたというのに・・

父の強引な同居も、こういう日を予測していたのか。私に最後の親孝行をさせるための、舞台が用意されたのか。この現実を前に多くの不満も、呑み込んでしまった我が夫。こうやって整理してみると、この一連のできごとも、父の単なる思いつきではなく父の偉大な計画的行為だったのかとも思うし、父とは別のところで働いた、大きな神の力だったのかな、とも思える。松山から千葉への転勤の辞令から始まったのか、息子がセンター試験で失敗し、志望校を変えて千葉大に決めたあたりから始まったのか・・・
# by kusanohana2 | 2009-04-24 15:23 | ②最後の1年を父と暮らした
~父の人生の半分は糖尿病との闘いだった



父の人生の半分は糖尿病との闘いだった。何しろ、糖尿病にかかったのは私が小学生の頃。終戦後から高度成長期の暴飲暴食が原因だった。
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若い頃は、力道山と間違われるほど太っていた

糖尿病の恐ろしさは、私は愚かにも父の死でようやく知った。母は父の糖尿病の治療にすべてを捧げていた。そのために母は父の敵のようになり、母の心労は大変なものだった。そのために(私たちは断定している)健康そのものの母が、肺がんになり、1998年66才であっという間に亡くなった。

50代で、社会的に1番頂点にあった時にも、教育入院というダイエットのための入院を2回ほどしていた。でもその頃はまだ、ただ太った人の病気・・・程度の認識だったが。その後第1の大きなつまずきは糖尿病からくる白内障。失明寸前で救われた。ただそれがきっかけで、会社を追われた。その後、脳梗塞もどきを経験。しかし大事には至らず。その頃から歩行が困難に。それは、末端の血管が細くなって神経が通わなくなっていることが原因らしい。それの究極が壊疽であり、足の切断になる。この心配が一番大きかったが、幸い、恐ろしい状態が続きながらも壊疽は回避できた。
 
母が亡くなった後、父の糖尿病は本人も忘れたかのような状態が続いていたらしい。私たちも父の糖尿病までは気が廻らなかったというか、母の寿命を縮めた父の病なぞ、どうでもよかた・・・というのが本音。母の死後4年、2002年、父の希望で私と一緒に中国を旅したとき、父の体の異様なむくみに私が驚愕した。私の指摘と、父の教会の方(看護師)のアドバイスからか、ようやく慈恵医大病院で診察をしてもらい、糖尿病性腎不全になりつつあることがわかった。母の7回忌に当たる2004年9月、父は慈恵医大病院に入院。腎不全がとうとう本格化。人工透析になるのも時間の問題となった。7回忌にあたるキリスト教の記念会を催したその日、父は入院中で、車椅子での参加となるほど体調が悪かった。その時人工透析用の管、シャントを腕に埋め込む手術をして退院してきた(いつでも透析に入れるように)。退院後からインシュリン注射を自分でするという、糖尿病にとって最後?の治療段階に入った。その翌年2005年1月から透析開始。透析は週3日、1回に4時間かかる。これをすれば生きていられる・・・という優れものだというが、実際、透析は本当につらい治療である。透析室には、父と同じような顔色をした患者さんが同じ顔ぶれで集まってきていた。亡くなる前3ヶ月、父は寝たきりで意識混濁しているような状態が続いていたが、インシュリンを打ち、透析を1日おきにし続けた。もし、3月のあの日に亡くなっていなかったら、父は意識のない状態で、ひたすら、ただ生きるために透析を繰り返し続けたのである。
 
父は小心と大胆が奇妙に同居しているようなところがあり、病気に対して、非常に小心であるにも関わらず、たぶん大丈夫だろう、という信じがたい思い込みで、糖尿病の治療にいつも大きくブレーキをかけてきた。過去の糖尿病の担当医とは、すべて喧嘩別れ?である。だから主治医がいない状態が多かった。結局、母がどうにか食い止めていたものが、母が亡くなってからは坂道をころげ落ちるようだった。腎不全で入院しても、退院すると腎臓病に悪いものすべて、天麩羅、うなぎ、ピザなどで祝杯をあげるような人である。私と同居した1年は認知症も手伝って悲惨な状態になっていった。1日700ccの水分制限は全く守れない。決まりごとは皆無に近かった。気付けば水道から水のがぶ飲み。一時期は、ワインやらビールを飲み、それが体内に残ってしまい二日酔いの状態に陥り入院したこともある。病院では悪い患者の横綱だった。塩分制限も、全くなし。体が塩辛いものを欲するのか、私たち家族も唖然をしてしまうようなスナック類や、たこ焼・お好み焼きなどををひたすら食べ続けていた。(塩中毒という言葉があるのだそうだ)
あれだけの無謀なことをし続けた10年(いや、30年)だったので、むしろよく10年も大丈夫だった・・・と感慨すら覚える。父との糖尿病の関わりを最後まで見届けた私は、自分が糖尿病になったら、精神的に持ちこたえられるかが不安である。     
# by kusanohana2 | 2008-03-02 22:41 | ③糖尿病との闘いは30年も続いた

父のキャラクター

父の生い立ちやら、生き方やら・・・



父のあの強烈なキャラクターを形成した生まれ育ちのご紹介。父は結局お坊ちゃま育ちのガキ大将が、そのまま大きくなった人だったかもしれない。
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生い立ち
1929年(昭和4年)6月東京浅草生まれ。今で言ったら、東京の六本木あたり?のような人気の繁華街のど真ん中で生まれている。家は洋服屋で、浅草近辺の地主でもあった。小さい時から浅草の繁華街を遊び場とし、ガキ大将でならしていたらしい(父からその武勇伝は聞いた)。その生まれのせいか、最後の最後まで、美しい自然には全く興味がなく、人の集まる雑踏が大好き。父の散歩コースが、我孫子駅前のイトーヨーカ堂の店内だったことに、納得がいく。また浅草の繁華街の屋台で食べた味を死ぬまで忘れず、とにかくB級グルメに徹していた。

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浅草にあった洋装店。中央に祖父が写っている

特筆すべき事柄として、父の家族の不幸がある。それは父の母親が父が2才の時に出産で亡くなったことである。父の弟の誕生日は、そのまま母親の命日となった。その不幸とは、まず母親の愛を知らずに育ったこと。次に、現代では信じがたいことだが、祖父が婿養子だったため、父は2才にして戸籍筆頭者となり、祖母のすべての財産を相続した。そのことで、父は大切に育てられた(わがまま一杯に成長した)。3番目には、妻を亡くした祖父が、妻の妹と再婚したこと。血縁関係が複雑になり、そして、財産をめぐっての微妙な人間関係が形成され、父はその火種となっていた。
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父の両親の結婚写真

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祖母亡きあとの、父の家族写真(左から3人目が父)



好奇心いっぱいの少年

父は好奇心に満ち溢れた人だった。いつでも「何か、おもしろいものはないかな?」と目を光らせていた。その目の光は、幼い頃のこの写真の目と同じように思える。この目の輝きを失わずにきたことは、今となれば、誇りでもある。が。父のこの性格は「新しもん好き」と呼ばれていた。私が生まれた頃(1957年)我が家には洗濯機があり、テレビがあり冷蔵庫があり今と同じような文化水準が保たれていたらしい。新しもん好きだからである。しかし、新しもん好きは家族には疎まれるようになった。珍しくて面白そうだと、使う人の意向も全く無視されて、勝手に買い替えられてしまう。新いものが好きなので、すぐに飽きる。全く子どもである。晩年、腎不全の体の不調から、あらゆる楽しみがなくなってしまった時、唯一、新聞に載る通販にわずかに父の好奇心の目がキラリと光る。その瞬間に電話器を取り、そこに電話する。途中で自分の住所が言えなくなったこともある。そして、買ったことを忘れる・・・・。

もちろん、父の好奇心は現役時代の活躍でも充分発揮されていた。父はグラビア印刷「本町セロファン」という会社の経営にたずさわっていた。経営者なのに、いろいろなアイデアを発信し続け、産業廃棄物を使って、工場の冷暖房をするという省エネの先端のことを考えつき、実行に移した。
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グラビア業界誌昭和54年11月記事


父が亡くなる1年ほど前、かつてのの腹心の部下で、父が仲人をした方が数10年ぶりで訪問されたことがある。普段はぼんやりしている父の頭が、その時はきんと回線がつながったようで、現役時代のように対応していた。しかし
「今の僕には君に、これからの方向性を示すことはできないよ。」と悲しそうな目で言っていたのを思い出す。私はその時、今の父はすっかりぼけてます・・・なんてニュアンスのことを伝えようとしていた。思えば、どうにかプライドを維持しておきたい、という父に対して罪なことをしたのだろう。





勉強嫌いだったが・・・

父は勉強なんて全然しなかった・・・とのたまってた。それでは何が得意だったかというと「生きてゆくことに、聡かった」というのでしょうか。
父が得意に話してくれた幼き日の話。小学生にもなっていないころ、お小遣いをもらって浅草の繁華街の焼き鳥屋の屋台で、焼き鳥を食べに行く。お勘定はお皿の上の串の数で払うので、父は隣の大人のお皿の上にそおっと食べた串を置いて数をごまかしたそう。その生き抜くたくましさ、頭の回転の速さ、そんなものが父を形成していたかも。本人曰く、天性の商才があると。数字の覚え、お金の計算などは天才的だった。いつもお金の計算をしていたっけ。幼い時から不動産やら現金などの財産を持っていたせいか?そういうものにとてもこだわっていた。ただ、財産を増やすことが好きだった。金利の低い郵便局の普通預金に預けていた私たち夫婦は「お金をただ持ってるだけの無能な人間」と言われたっけ。文化とか芸術とかに無関心でお金のことばかり言っている、と私はとても不満を持っていた。価値観の相違・・・・でも私はお金に固執する父の贅沢な生活は享受していた。







父のプライド

父はよく「生まれた家のプライド」という話をよくした。私は自分の家のプライドの実態をひとつも知らなかった。父の自慢話に耐えかねて、心の底でひどく反発していた。その姿勢は最後まで続いたが、今、父がいなくなってみると、逆にこの家のプライドって何だろう・・・と思うようになった。そしてこの家がプライドであるものであって欲しいと思うようになった。父の死後、戸籍を遡って取り寄せたりすることで、どういう家だったのか・・・を自分なりにイメージするようになってきた。父は自分で動かず、人に指図して何かをやらせることに終始していた。そんな父の行動には私は大反発していた。しかし、最後の1年をともに暮らした私の夫が斬新な意見をくれた。
「結局、おやじは、ほんとにお坊ちゃんだったんだよ。昔はそういう大旦那のような存在があったんだ。しかも結局育ちがいいから人を疑うことは知らないし、贅沢を知ってる。でも生きた時代が少し遅かったよな。お袋さんが亡くなってからは、ほんとにかわいそうだった。」
ま、そんな解釈でいいのでしょうか。生きている間は反発ばかりしていた父の生き方だが、父亡き後の、そんな解釈を聞くと少しうれしい。



ひたすら前向きに進んでいた
父はあっぱれなくらい前向きな人だ。父の全盛期の数々の武勇伝は私には伝えられない(詳しいことがわからない)。私が知っている父で一番感心していたのは、母亡き後の生活だ。父の生活支援をしていた福祉関係の方も口を揃えて言ってくれたのが、父は模範的な自立した老人だったということ。母が闘病していたころから、料理に挑戦し始めた。台所に立つことが全くなかった父からは、信じられないような変身ぶりだったが、どうにかしなくてはいけない、とその後も頑張り続けた。
その他にも生活面での工夫は、微笑ましいばかり。父の1人暮らしの工夫は面白かった。目が悪くなりテレビの主電源のスイッチの場所がわからないらしい・・・そこには蛍光のシールが貼ってあり、暗くてもその場所がわかるようになっていた。鍵がみつからないことが多いらしい・・・そこでお財布に1mくらいにひもをつなげ、鍵をぶら下げていた。その他、ごみ箱のふたの持ち手がわからないらしい・・・そこにも蛍光のシールが貼ってあった。4つ並ぶ電気のスイッチ。どれがメインのスイッチかわからないらしい・・・他のスイッチをガムテープで隠してあった。

若い時は、母に靴下まではかせてもらっていた父だが、最期まで自分でしようと努力していた。どんなに体調が悪くても、服を着替えて、髪をといて外出していた父だった。しかし、最後となったの入院の朝、どうしてもシャツが着れない・・・・と泣きそうだった父に、パジャマで行きましょうと声をかけた。今思えば哀しいことだった・・・。    
# by kusanohana2 | 2008-03-02 22:39 | ④父のキャラクター

2006年闘病の記録

~長く暗いトンネルのようだった1年



父は2005年の1月から人工透析が始まった。最初の頃は、「俺は毒素が少なくて、ただ水を体の中に通しているだけなんだ。たった3時間で終わるんだ。大変な人は4時間もやってる。」と他の人をこけおろしていたが、病識がまったく間違っていたので(意識的なのか、ほんとにわからないのかは、全く不明だった)坂道をころげおちるように悪化していった。私は体を張って、どんなことをしても父に言うことを聞かせるべきだったのかもしれないが、私はしなかった。あれもダメ、これもダメと、もめ続けた母の二の舞をしたくなかったからである。卑怯であった。でも、父にぎゃんぎゃん言って、やめさせて、長生きしてもらうのが、ほんとに幸せなのか、常に自問自答を繰り返していた。そして、私も父とのストレスから病気になるのはイヤだった。
2006年の父は、入院と退院を3週間ていどのサイクルで繰り返し続けた。だから、1年の同居と行っても同じ屋根の下に住んだのは半分になる。父がどんな1年を過ごしたのか、私なりに記録しておきたい。壊れてしまった父を記憶するのも父には申し訳ないと思うが、私の真実の気持ちである。




苦しい・・呼吸ができない
2006年新年早々、父は水分摂取量が多すぎて肺に水がたまり、呼吸困難になる。まだ私は同居していなかった。妹が深夜に病院に連れてゆきそのまま入院。人工透析で水分を抜き、その後正しい食生活と水分制限で体調が落ち着く。これと同じことが、2006年に何回起きたことだろう。①1月6日から1月21日②2月20日~3月13日③4月3日~5月8日(この間慈恵にも入院治療、危篤になる)④6月5日~7月1日(この間2回外泊で地自宅に帰る)⑤10月2日~10月14日⑥11月9日~11月30日⑦12月12日
整理してみた。呼吸不全で7回の入院だったわけだ。・・・・・sigh(ため息)・・・・・



外食をした直後にお店で倒れる
2006年1月下旬。父の透析病院、我孫子東邦病院にて、栄養指導を受ける。腎臓病の食事について。糖尿病の食事に関しては、知識はある方だったが、腎臓病はそら恐ろしくなるほど制限が多い。腎臓病は、もちろん塩分制限が厳しいが、その他にたんぱく質の制限がある。そこに糖尿病が加われば、食べるもの、あるの?って感じ。生きてるのはつらくなりそうなほど、食べられる食品が少ない。これからどうしたらいいのだろう・・・という心配。(結局、腎臓病専門の宅配お弁当サービスを利用することになるが)その話を聞いていた父は、全部わかったようにしているので、ある程度、認識してもらえたかなと安心はする。しかし、病院の帰り道、外食をしよう・・・と父に誘われる。え~~。でもいつもこうだ。父は病院でまずい食事ばっかりしているからせめてうまいもんを食おうという発想。そうよね、と思わずうなずく・・・わけにはいかない。だが、その日は夢庵というファミリーレストランへ行くことになった。夢庵ではこたつ式に足を入れる和室のテーブルに座った。食事が終わって帰る時、ふらつき、倒れた。辺りが騒然として何人かの人が助けに来てくれた。救急車を呼ぶか否かで私の頭は忙しく働いた。血糖値があがり過ぎて倒れたのか、水分を取りすぎの呼吸困難か。結局助けあげられて足が地面に着いたら、内臓的な疾患ではなく、足の問題だったようなので、父を抱きかかえて家に戻る。



肝臓がんが見つかった・・・
長い糖尿病で、体中がぼろぼろの父に、肝臓ガンまでが見つった。2月10日に我孫子東邦病院から呼び出しがかかり再検査を言われた時、妹と私はほっておいてくれ、という気持ちだった。しかし、その後、慈恵大柏病院にて検査をすることになる。慈恵へ予約を入れた矢先、再び父は呼吸不全により東邦病院に入院。慈恵への検査は病院からの出発になった。東邦病院に父を迎えに行き慈恵へ行ったが、その時、父は何しに慈恵に行くのか、わかっていなかった。検査の結果は、肝臓がんであり、余命もあまりない、ということだった。医師が苦しそうに告知してくれたが、私たちは、意外に驚かなかった。むしろ肝臓がんの前に腎不全で体が持つのかが心配だったから。糖尿病がひどい父の状況としては、手術のようにメスを入れてしまうと、傷口がふさがらず、それが致命傷になる。そのため、肝臓のがんを殺すために、肝臓への栄養の道をふさいでがんを壊死させる方法をとることになった。4月10日、治療のため慈恵に入院。父の場合、人工透析をしながらの治療なので、透析のリズムを狂わせることなく、病院間で連絡を取り合って日程を決める必要がある。父の体調の不良により、治療が大きく延期される。ところが、治療の前日になって、調べた肝臓がんの細胞は、良性であったと!!(どうせこんなことだろう・・という家族の恐ろしい心境)それでも、一応治療しておきましょう・・・ということ(え~~なんでほっておいてくれないの?)。

そして4月18日。治療当日。家族は来なくていいと言われていたのが、午後、病院から至急来てほしい、という切羽詰まった電話。なんと、父は呼吸不全に陥り、危篤状態になっていたのだ。医師は蒼白な顔をしていた。血管がボロボロで治療を途中で断念した(カテーテル)との説明。それだけのことだったのに、その後呼吸不全になり、ICUへ。今晩が山なので、関係者への連絡もか考えてほしい、と。ホントかいな!!あまりの展開に呆然の私。父の教会の牧師と、父の姉に連絡する。夜伯母が東京からハイヤーで駆けつけてくれる。そして父に会って一言。
「大丈夫。今晩死ぬ顔じゃないわよ・・・」

伯母の預言?通り、父は翌日自発呼吸ができるようになり、3日後には、一般病棟に戻ることができた。結局、慈恵は父に慣れない病院だったので透析時に水をひく加減に失敗したらしい。それで水分量が体内に多くなり、いつもの呼吸不全に陥ったらしい(特に説明はなかったが)。一般病棟に戻ったとたんに、病院の床屋さんに行って「さっぱりしてきた」と。3日前に生死をさまよった人が、床屋さんに行くとは!父はこのように強い生命力を持つ人だった。
 
エピソード1  父はこの入院で臨死体験をしたらしい・・・まだ治療も開始していない時だけれど。そのお話がフルってた。病室でとても苦しい夜だった。寝苦しくて、たまらず、目を開けてみたらベッドのまわりに縫いぐるみががいっぱい並んでいた。そして、その中に俺がいたんだよ・・・と。びっくりして、隣のベッドとの境目のカーテンを開けたら、隣のベッドが見えて、縫いぐるみが消えたんだよ。え~~~それってはっきり言って臨死体験じゃない!!私は興奮したが、父は平然としていた。縫いぐるみになった父を想像すると、可笑しくてたまらない。

エピソード2  それから11ヶ月後、父が亡くなる前日のこと。私は九州柳川で船下りをしていた。船頭さんの手漕ぎの船で、歌など聞きながらのんびり旅の最中に携帯がなった。入院中の病院の主治医からだった。
「お父さんに、肝臓癌が見つかったので至急来て下さい」
船頭の歌声の流れる中、ボソボソ話す私。
「もう、それはとっくに良性であることがわかっています。今私は旅行中なので妹に詳しいこと聞いて下さい。」と私はその場でやり過ごした。病院間でそういう申し送り事項はないのか、と私は憮然とした思い。結局、翌日父は亡くなった。



今度は心臓の治療!?
肝臓がんの騒ぎが落ち着いて、5月8日から自宅に戻りヤレヤレと、どうにかいつもの生活が始まった矢先1ヶ月もしないうちにまた呼吸不全に陥って入院した。その入院中に、病院からこのままでは父はもうだめだ・・・ということで呼吸不全を少しでも解消するために心臓の治療が必要ではないか・・・示唆された。心臓への血管を少しでも広げようというのだ。もう、家族は疲れ果てていたが、逆らうわけにも行かず、病院の指示のままに再び慈恵医大に検査に行った。結論は、血管にカテーテルを入れて血管の通りを少しでもよくするということになった。全開の肝臓がんの治療の時は、カテーテルが入らず、治療中止になったのに。今度は大丈夫だという。ここまで来ると、父も自分の身に何が起きているか全くわからない。私たちだって・・・。検査だけでも大変な経緯があったが、とにかく治療の日が来た。7月28日。今回は家族も詰めている。終了後の医師の説明「途中で呼吸が止まりましが、心臓マッサージで戻りました。思った以上に血管のつまりが激しく、血管自体がボロボロなので、治療は半分で中止になりました。」これって喜んでいいの?。半分は治療したし、呼吸が止まっても蘇生したし。

その数日後、まあまあいつもの状態に戻ってきた父だが、左腕が、手術直後から内出血で紫色になっていた。大丈夫?大丈夫?と不安になりながらも数日経過したが、そのうち左肘の裏(治療のためにカテーテルを入れた口)に紫色の大きなコブができてしまった。その後医師たちは大騒ぎである。家族全員(私と妹)が呼ばれて説明を受けた。カテーテルを入れた場所から血液が漏れ続けコブ仮性動脈瘤ができてしまったと。破裂すれば死亡だし、手術か、様子見か・・・。また、父は危篤になるのか!だから治療なんてしなくていいのに。私たちの真実の叫びだった。結局、糖尿病なので手術はできず、古典的な方法で父の動脈瘤をつぶした。それは、飛び出たコブにガラス瓶をくくりつけ、外側から押したのだ。父は幼稚園生のように、腕にくくりつけられたガラス瓶に疑問を感じていた。

そんな地獄を見たような体験だったが、意外にもそれから1週間後には病院から追い出されて父は帰ってきた。半分の治療プラス動脈瘤つきだったが、さすがに少し治療の成果があり8月から9月。この2ヶ月間は無事で過ごせた。



ついでに大腸がんだったかもしれない
おまけのお話。実は大腸がんもあった可能性がある。以前から数値がひっかかっていたらしいが、父があくまでも検便を拒否したというのだ。その後も検便をするように、私も言われたが、父は便秘で検便はできない、と言うし、たまに解消した日は「もう流した」と言うし、私もとうとう知らぬふりを決め込んだ。ところが、慈恵で検査をしていると、他を調べているのに、またしても大腸がんでひっかかる。医師に呼ばれて、この際きちんと調べてはどうかと勧められた。しかし、手術ができるわけでもなく、見つかったところで、これい以上どうしようというのだ・・・。腎不全の今の状態が解消したらまた来ます・・・と言って私は逃げてきた。



脳挫傷になってしまった
人工透析をしながらも、水分、塩分摂取の激しい父は、体内にたまった不純物を排斥しきれなくなり、体内にいつも毒素が残っているようになった。いつもだるく、いつもぼんやりしていた。そして恐るべきことに、水分を抜けばOKだったのが血圧が低くなり(体に血を送る力が弱くなってきた)一度に水を抜く量が1K程度に落ちてしまった。それまでは2日間で4Kとか水分がたまってしまったものを、1度で抜いてもらっていたのに。4時間以上透析しても、血圧が低いために1Kしか水が引けず、しかも低血圧症状のため、透析後起き上がれないのだ。もう、送迎のバスにも乗れず、自宅前までタクシーの送迎になった。

10月に一度入院。そして11月に再び入院。医師もそろそろ入院し続けるか?いうことを言ってきた。11月末に無理矢理退院してきたが、その日、帰宅し、眠っていた父がいきなり起き上がったらしく、大音響とともに転倒していた。新築の家の壁に穴があいた。しかしこの時は、柔らかい壁の面にあたっただけで大事には至らなかった。だが、12月に入って再び入院した数日後、病院内で同じことが起きたらしい。いきなり病院に呼ばれ、転倒により父の脳に何かが起きたと説明。救急車で大病院に運ばれることになった。12月19日のことである。取手市の協同病院である。脳挫傷であった。重篤であると告げられた。再び、親戚には連絡。私たちも覚悟はした。しかし重篤と言われたその日から約3ヶ月。父は朦朧とした意識の中で生き続けた。時々ふっと現実に下りてきて、呼びかけに対しては返事もしていた。後は過去の世界を泳いでいた。口からで出る単語で、昔をさまよっているのがわかった。何故か、手足をバタバタさせて大声を出して、元気のいい患者だった。最後までエネルギーのあった父だった。思い起こせば、倒れた日から食べ物は口を通過することなく、栄養だけを投与された3ヶ月だった。

父が亡くなったのは3月10日。私が最後に父と会ったのは3月6日だった。その日もいつものように意味不明の大きな声を出して、手足をバタバタさせていたっけ・・・帰るわね、と言うと、わかったのかわからないような目でこちらを見ていたっけ・・・そんな姿ばかりを思い出すことは父のためによくないだろう。そんな思いで、ここに語った。そして父のために忘れてあげるべきなのだろう。
 父は七転八倒しつつも、次第に壊れていって、そして静かに天に召されていった。その静けさは想像外だった。人は生まれる時の苦しみと死ぬ時の苦しみは避けて通れないと、いう。父は苦しみをどんなふうに認識していたのだろうか・・・・
# by kusanohana2 | 2008-03-02 22:36 | ⑤2006年闘病の記録