~長く暗いトンネルのようだった1年
父は2005年の1月から人工透析が始まった。最初の頃は、「俺は毒素が少なくて、ただ水を体の中に通しているだけなんだ。たった3時間で終わるんだ。大変な人は4時間もやってる。」と他の人をこけおろしていたが、病識がまったく間違っていたので(意識的なのか、ほんとにわからないのかは、全く不明だった)坂道をころげおちるように悪化していった。私は体を張って、どんなことをしても父に言うことを聞かせるべきだったのかもしれないが、私はしなかった。あれもダメ、これもダメと、もめ続けた母の二の舞をしたくなかったからである。卑怯であった。でも、父にぎゃんぎゃん言って、やめさせて、長生きしてもらうのが、ほんとに幸せなのか、常に自問自答を繰り返していた。そして、私も父とのストレスから病気になるのはイヤだった。
2006年の父は、入院と退院を3週間ていどのサイクルで繰り返し続けた。だから、1年の同居と行っても同じ屋根の下に住んだのは半分になる。父がどんな1年を過ごしたのか、私なりに記録しておきたい。壊れてしまった父を記憶するのも父には申し訳ないと思うが、私の真実の気持ちである。
苦しい・・呼吸ができない
2006年新年早々、父は水分摂取量が多すぎて肺に水がたまり、呼吸困難になる。まだ私は同居していなかった。妹が深夜に病院に連れてゆきそのまま入院。人工透析で水分を抜き、その後正しい食生活と水分制限で体調が落ち着く。これと同じことが、2006年に何回起きたことだろう。①1月6日から1月21日②2月20日~3月13日③4月3日~5月8日(この間慈恵にも入院治療、危篤になる)④6月5日~7月1日(この間2回外泊で地自宅に帰る)⑤10月2日~10月14日⑥11月9日~11月30日⑦12月12日
整理してみた。呼吸不全で7回の入院だったわけだ。・・・・・sigh(ため息)・・・・・
外食をした直後にお店で倒れる
2006年1月下旬。父の透析病院、我孫子東邦病院にて、栄養指導を受ける。腎臓病の食事について。糖尿病の食事に関しては、知識はある方だったが、腎臓病はそら恐ろしくなるほど制限が多い。腎臓病は、もちろん塩分制限が厳しいが、その他にたんぱく質の制限がある。そこに糖尿病が加われば、食べるもの、あるの?って感じ。生きてるのはつらくなりそうなほど、食べられる食品が少ない。これからどうしたらいいのだろう・・・という心配。(結局、腎臓病専門の宅配お弁当サービスを利用することになるが)その話を聞いていた父は、全部わかったようにしているので、ある程度、認識してもらえたかなと安心はする。しかし、病院の帰り道、外食をしよう・・・と父に誘われる。え~~。でもいつもこうだ。父は病院でまずい食事ばっかりしているから
せめてうまいもんを食おうという発想。そうよね、と思わずうなずく・・・わけにはいかない。だが、その日は夢庵というファミリーレストランへ行くことになった。夢庵ではこたつ式に足を入れる和室のテーブルに座った。食事が終わって帰る時、ふらつき、倒れた。辺りが騒然として何人かの人が助けに来てくれた。救急車を呼ぶか否かで私の頭は忙しく働いた。血糖値があがり過ぎて倒れたのか、水分を取りすぎの呼吸困難か。結局助けあげられて足が地面に着いたら、内臓的な疾患ではなく、足の問題だったようなので、父を抱きかかえて家に戻る。
肝臓がんが見つかった・・・
長い糖尿病で、体中がぼろぼろの父に、肝臓ガンまでが見つった。2月10日に我孫子東邦病院から呼び出しがかかり再検査を言われた時、妹と私はほっておいてくれ、という気持ちだった。しかし、その後、慈恵大柏病院にて検査をすることになる。慈恵へ予約を入れた矢先、再び父は呼吸不全により東邦病院に入院。慈恵への検査は病院からの出発になった。東邦病院に父を迎えに行き慈恵へ行ったが、その時、父は何しに慈恵に行くのか、わかっていなかった。検査の結果は、肝臓がんであり、余命もあまりない、ということだった。医師が苦しそうに告知してくれたが、私たちは、意外に驚かなかった。むしろ肝臓がんの前に腎不全で体が持つのかが心配だったから。糖尿病がひどい父の状況としては、手術のようにメスを入れてしまうと、傷口がふさがらず、それが致命傷になる。そのため、肝臓のがんを殺すために、肝臓への栄養の道をふさいでがんを壊死させる方法をとることになった。4月10日、治療のため慈恵に入院。父の場合、人工透析をしながらの治療なので、透析のリズムを狂わせることなく、病院間で連絡を取り合って日程を決める必要がある。父の体調の不良により、治療が大きく延期される。ところが、治療の前日になって、調べた肝臓がんの細胞は、良性であったと!!(どうせこんなことだろう・・という家族の恐ろしい心境)それでも、一応治療しておきましょう・・・ということ(え~~なんでほっておいてくれないの?)。
そして4月18日。治療当日。家族は来なくていいと言われていたのが、午後、病院から至急来てほしい、という切羽詰まった電話。なんと、父は呼吸不全に陥り、危篤状態になっていたのだ。医師は蒼白な顔をしていた。血管がボロボロで治療を途中で断念した(カテーテル)との説明。それだけのことだったのに、その後呼吸不全になり、ICUへ。今晩が山なので、関係者への連絡もか考えてほしい、と。ホントかいな!!あまりの展開に呆然の私。父の教会の牧師と、父の姉に連絡する。夜伯母が東京からハイヤーで駆けつけてくれる。そして父に会って一言。
「大丈夫。今晩死ぬ顔じゃないわよ・・・」
伯母の預言?通り、父は翌日自発呼吸ができるようになり、3日後には、一般病棟に戻ることができた。結局、慈恵は父に慣れない病院だったので透析時に水をひく加減に失敗したらしい。それで水分量が体内に多くなり、いつもの呼吸不全に陥ったらしい(特に説明はなかったが)。一般病棟に戻ったとたんに、病院の床屋さんに行って「さっぱりしてきた」と。3日前に生死をさまよった人が、床屋さんに行くとは!父はこのように強い生命力を持つ人だった。
エピソード1 父はこの入院で臨死体験をしたらしい・・・まだ治療も開始していない時だけれど。そのお話がフルってた。病室でとても苦しい夜だった。寝苦しくて、たまらず、目を開けてみたらベッドのまわりに縫いぐるみががいっぱい並んでいた。そして、その中に俺がいたんだよ・・・と。びっくりして、隣のベッドとの境目のカーテンを開けたら、隣のベッドが見えて、縫いぐるみが消えたんだよ。え~~~それってはっきり言って臨死体験じゃない!!私は興奮したが、父は平然としていた。縫いぐるみになった父を想像すると、可笑しくてたまらない。
エピソード2 それから11ヶ月後、父が亡くなる前日のこと。私は九州柳川で船下りをしていた。船頭さんの手漕ぎの船で、歌など聞きながらのんびり旅の最中に携帯がなった。入院中の病院の主治医からだった。
「お父さんに、肝臓癌が見つかったので至急来て下さい」
船頭の歌声の流れる中、ボソボソ話す私。
「もう、それはとっくに良性であることがわかっています。今私は旅行中なので妹に詳しいこと聞いて下さい。」と私はその場でやり過ごした。病院間でそういう申し送り事項はないのか、と私は憮然とした思い。結局、翌日父は亡くなった。
今度は心臓の治療!?
肝臓がんの騒ぎが落ち着いて、5月8日から自宅に戻りヤレヤレと、どうにかいつもの生活が始まった矢先1ヶ月もしないうちにまた呼吸不全に陥って入院した。その入院中に、病院からこのままでは父はもうだめだ・・・ということで呼吸不全を少しでも解消するために心臓の治療が必要ではないか・・・示唆された。心臓への血管を少しでも広げようというのだ。もう、家族は疲れ果てていたが、逆らうわけにも行かず、病院の指示のままに再び慈恵医大に検査に行った。結論は、
血管にカテーテルを入れて血管の通りを少しでもよくするということになった。全開の肝臓がんの治療の時は、カテーテルが入らず、治療中止になったのに。今度は大丈夫だという。ここまで来ると、父も自分の身に何が起きているか全くわからない。私たちだって・・・。検査だけでも大変な経緯があったが、とにかく治療の日が来た。7月28日。今回は家族も詰めている。終了後の医師の説明「途中で呼吸が止まりましが、心臓マッサージで戻りました。思った以上に血管のつまりが激しく、血管自体がボロボロなので、治療は半分で中止になりました。」これって喜んでいいの?。半分は治療したし、呼吸が止まっても蘇生したし。
その数日後、まあまあいつもの状態に戻ってきた父だが、左腕が、手術直後から内出血で紫色になっていた。大丈夫?大丈夫?と不安になりながらも数日経過したが、そのうち左肘の裏(治療のためにカテーテルを入れた口)に紫色の大きなコブができてしまった。その後医師たちは大騒ぎである。家族全員(私と妹)が呼ばれて説明を受けた。カテーテルを入れた場所から血液が漏れ続けコブ
仮性動脈瘤ができてしまったと。破裂すれば死亡だし、手術か、様子見か・・・。また、父は危篤になるのか!だから治療なんてしなくていいのに。私たちの真実の叫びだった。結局、糖尿病なので手術はできず、古典的な方法で父の動脈瘤をつぶした。それは、飛び出たコブにガラス瓶をくくりつけ、外側から押したのだ。父は幼稚園生のように、腕にくくりつけられたガラス瓶に疑問を感じていた。
そんな地獄を見たような体験だったが、意外にもそれから1週間後には病院から追い出されて父は帰ってきた。半分の治療プラス動脈瘤つきだったが、さすがに少し治療の成果があり8月から9月。この2ヶ月間は無事で過ごせた。
ついでに大腸がんだったかもしれない
おまけのお話。実は大腸がんもあった可能性がある。以前から数値がひっかかっていたらしいが、父があくまでも検便を拒否したというのだ。その後も検便をするように、私も言われたが、父は便秘で検便はできない、と言うし、たまに解消した日は「もう流した」と言うし、私もとうとう知らぬふりを決め込んだ。ところが、慈恵で検査をしていると、他を調べているのに、またしても大腸がんでひっかかる。医師に呼ばれて、この際きちんと調べてはどうかと勧められた。しかし、手術ができるわけでもなく、見つかったところで、これい以上どうしようというのだ・・・。腎不全の今の状態が解消したらまた来ます・・・と言って私は逃げてきた。
脳挫傷になってしまった
人工透析をしながらも、水分、塩分摂取の激しい父は、体内にたまった不純物を排斥しきれなくなり、体内にいつも毒素が残っているようになった。いつもだるく、いつもぼんやりしていた。そして恐るべきことに、水分を抜けばOKだったのが血圧が低くなり(体に血を送る力が弱くなってきた)一度に水を抜く量が1K程度に落ちてしまった。それまでは2日間で4Kとか水分がたまってしまったものを、1度で抜いてもらっていたのに。4時間以上透析しても、血圧が低いために1Kしか水が引けず、しかも低血圧症状のため、透析後起き上がれないのだ。もう、送迎のバスにも乗れず、自宅前までタクシーの送迎になった。
10月に一度入院。そして11月に再び入院。医師もそろそろ入院し続けるか?いうことを言ってきた。11月末に無理矢理退院してきたが、その日、帰宅し、眠っていた父がいきなり起き上がったらしく、大音響とともに転倒していた。新築の家の壁に穴があいた。しかしこの時は、柔らかい壁の面にあたっただけで大事には至らなかった。だが、12月に入って再び入院した数日後、病院内で同じことが起きたらしい。いきなり病院に呼ばれ、転倒により父の脳に何かが起きたと説明。救急車で大病院に運ばれることになった。12月19日のことである。取手市の協同病院である。
脳挫傷であった。重篤であると告げられた。再び、親戚には連絡。私たちも覚悟はした。しかし重篤と言われたその日から約3ヶ月。父は朦朧とした意識の中で生き続けた。時々ふっと現実に下りてきて、呼びかけに対しては返事もしていた。後は過去の世界を泳いでいた。口からで出る単語で、昔をさまよっているのがわかった。何故か、手足をバタバタさせて大声を出して、元気のいい患者だった。最後までエネルギーのあった父だった。思い起こせば、倒れた日から食べ物は口を通過することなく、栄養だけを投与された3ヶ月だった。
父が亡くなったのは3月10日。私が最後に父と会ったのは3月6日だった。その日もいつものように意味不明の大きな声を出して、手足をバタバタさせていたっけ・・・帰るわね、と言うと、わかったのかわからないような目でこちらを見ていたっけ・・・そんな姿ばかりを思い出すことは父のためによくないだろう。そんな思いで、ここに語った。そして父のために忘れてあげるべきなのだろう。
父は七転八倒しつつも、次第に壊れていって、そして静かに天に召されていった。その静けさは想像外だった。人は生まれる時の苦しみと死ぬ時の苦しみは避けて通れないと、いう。父は苦しみをどんなふうに認識していたのだろうか・・・・