人気ブログランキング | 話題のタグを見る

父が亡くなって1年が過ぎた。今ここに父を偲び、その思い出を文章にしてみたい。


by kusanohana2

父のキャラクター

父の生い立ちやら、生き方やら・・・



父のあの強烈なキャラクターを形成した生まれ育ちのご紹介。父は結局お坊ちゃま育ちのガキ大将が、そのまま大きくなった人だったかもしれない。
父のキャラクター_d0143267_21383057.jpg



生い立ち
1929年(昭和4年)6月東京浅草生まれ。今で言ったら、東京の六本木あたり?のような人気の繁華街のど真ん中で生まれている。家は洋服屋で、浅草近辺の地主でもあった。小さい時から浅草の繁華街を遊び場とし、ガキ大将でならしていたらしい(父からその武勇伝は聞いた)。その生まれのせいか、最後の最後まで、美しい自然には全く興味がなく、人の集まる雑踏が大好き。父の散歩コースが、我孫子駅前のイトーヨーカ堂の店内だったことに、納得がいく。また浅草の繁華街の屋台で食べた味を死ぬまで忘れず、とにかくB級グルメに徹していた。

父のキャラクター_d0143267_2244253.jpg
浅草にあった洋装店。中央に祖父が写っている

特筆すべき事柄として、父の家族の不幸がある。それは父の母親が父が2才の時に出産で亡くなったことである。父の弟の誕生日は、そのまま母親の命日となった。その不幸とは、まず母親の愛を知らずに育ったこと。次に、現代では信じがたいことだが、祖父が婿養子だったため、父は2才にして戸籍筆頭者となり、祖母のすべての財産を相続した。そのことで、父は大切に育てられた(わがまま一杯に成長した)。3番目には、妻を亡くした祖父が、妻の妹と再婚したこと。血縁関係が複雑になり、そして、財産をめぐっての微妙な人間関係が形成され、父はその火種となっていた。
父のキャラクター_d0143267_22335573.jpg

父の両親の結婚写真

父のキャラクター_d0143267_22351090.jpg
祖母亡きあとの、父の家族写真(左から3人目が父)



好奇心いっぱいの少年

父は好奇心に満ち溢れた人だった。いつでも「何か、おもしろいものはないかな?」と目を光らせていた。その目の光は、幼い頃のこの写真の目と同じように思える。この目の輝きを失わずにきたことは、今となれば、誇りでもある。が。父のこの性格は「新しもん好き」と呼ばれていた。私が生まれた頃(1957年)我が家には洗濯機があり、テレビがあり冷蔵庫があり今と同じような文化水準が保たれていたらしい。新しもん好きだからである。しかし、新しもん好きは家族には疎まれるようになった。珍しくて面白そうだと、使う人の意向も全く無視されて、勝手に買い替えられてしまう。新いものが好きなので、すぐに飽きる。全く子どもである。晩年、腎不全の体の不調から、あらゆる楽しみがなくなってしまった時、唯一、新聞に載る通販にわずかに父の好奇心の目がキラリと光る。その瞬間に電話器を取り、そこに電話する。途中で自分の住所が言えなくなったこともある。そして、買ったことを忘れる・・・・。

もちろん、父の好奇心は現役時代の活躍でも充分発揮されていた。父はグラビア印刷「本町セロファン」という会社の経営にたずさわっていた。経営者なのに、いろいろなアイデアを発信し続け、産業廃棄物を使って、工場の冷暖房をするという省エネの先端のことを考えつき、実行に移した。
父のキャラクター_d0143267_11325650.jpg

グラビア業界誌昭和54年11月記事


父が亡くなる1年ほど前、かつてのの腹心の部下で、父が仲人をした方が数10年ぶりで訪問されたことがある。普段はぼんやりしている父の頭が、その時はきんと回線がつながったようで、現役時代のように対応していた。しかし
「今の僕には君に、これからの方向性を示すことはできないよ。」と悲しそうな目で言っていたのを思い出す。私はその時、今の父はすっかりぼけてます・・・なんてニュアンスのことを伝えようとしていた。思えば、どうにかプライドを維持しておきたい、という父に対して罪なことをしたのだろう。





勉強嫌いだったが・・・

父は勉強なんて全然しなかった・・・とのたまってた。それでは何が得意だったかというと「生きてゆくことに、聡かった」というのでしょうか。
父が得意に話してくれた幼き日の話。小学生にもなっていないころ、お小遣いをもらって浅草の繁華街の焼き鳥屋の屋台で、焼き鳥を食べに行く。お勘定はお皿の上の串の数で払うので、父は隣の大人のお皿の上にそおっと食べた串を置いて数をごまかしたそう。その生き抜くたくましさ、頭の回転の速さ、そんなものが父を形成していたかも。本人曰く、天性の商才があると。数字の覚え、お金の計算などは天才的だった。いつもお金の計算をしていたっけ。幼い時から不動産やら現金などの財産を持っていたせいか?そういうものにとてもこだわっていた。ただ、財産を増やすことが好きだった。金利の低い郵便局の普通預金に預けていた私たち夫婦は「お金をただ持ってるだけの無能な人間」と言われたっけ。文化とか芸術とかに無関心でお金のことばかり言っている、と私はとても不満を持っていた。価値観の相違・・・・でも私はお金に固執する父の贅沢な生活は享受していた。







父のプライド

父はよく「生まれた家のプライド」という話をよくした。私は自分の家のプライドの実態をひとつも知らなかった。父の自慢話に耐えかねて、心の底でひどく反発していた。その姿勢は最後まで続いたが、今、父がいなくなってみると、逆にこの家のプライドって何だろう・・・と思うようになった。そしてこの家がプライドであるものであって欲しいと思うようになった。父の死後、戸籍を遡って取り寄せたりすることで、どういう家だったのか・・・を自分なりにイメージするようになってきた。父は自分で動かず、人に指図して何かをやらせることに終始していた。そんな父の行動には私は大反発していた。しかし、最後の1年をともに暮らした私の夫が斬新な意見をくれた。
「結局、おやじは、ほんとにお坊ちゃんだったんだよ。昔はそういう大旦那のような存在があったんだ。しかも結局育ちがいいから人を疑うことは知らないし、贅沢を知ってる。でも生きた時代が少し遅かったよな。お袋さんが亡くなってからは、ほんとにかわいそうだった。」
ま、そんな解釈でいいのでしょうか。生きている間は反発ばかりしていた父の生き方だが、父亡き後の、そんな解釈を聞くと少しうれしい。



ひたすら前向きに進んでいた
父はあっぱれなくらい前向きな人だ。父の全盛期の数々の武勇伝は私には伝えられない(詳しいことがわからない)。私が知っている父で一番感心していたのは、母亡き後の生活だ。父の生活支援をしていた福祉関係の方も口を揃えて言ってくれたのが、父は模範的な自立した老人だったということ。母が闘病していたころから、料理に挑戦し始めた。台所に立つことが全くなかった父からは、信じられないような変身ぶりだったが、どうにかしなくてはいけない、とその後も頑張り続けた。
その他にも生活面での工夫は、微笑ましいばかり。父の1人暮らしの工夫は面白かった。目が悪くなりテレビの主電源のスイッチの場所がわからないらしい・・・そこには蛍光のシールが貼ってあり、暗くてもその場所がわかるようになっていた。鍵がみつからないことが多いらしい・・・そこでお財布に1mくらいにひもをつなげ、鍵をぶら下げていた。その他、ごみ箱のふたの持ち手がわからないらしい・・・そこにも蛍光のシールが貼ってあった。4つ並ぶ電気のスイッチ。どれがメインのスイッチかわからないらしい・・・他のスイッチをガムテープで隠してあった。

若い時は、母に靴下まではかせてもらっていた父だが、最期まで自分でしようと努力していた。どんなに体調が悪くても、服を着替えて、髪をといて外出していた父だった。しかし、最後となったの入院の朝、どうしてもシャツが着れない・・・・と泣きそうだった父に、パジャマで行きましょうと声をかけた。今思えば哀しいことだった・・・。    
by kusanohana2 | 2008-03-02 22:39 | ④父のキャラクター